砂丘が動くように (講談社文芸文庫)
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世界のイデオロギー、日本の政治、個々人の考え方、どれをとっても二極であることで意見が均衡(equilibrium)している。
価値や思考判断の前提条件が異なるため、互いにどうにも相容れない状況が起こり、いたずらに時間が消費されていく。
総論賛成・各論反対、思惑や駆け引き、綱引き・・・。
意味のないことが繰り返されているような気もするのだが、それでも時間は過ぎていく。
教義や思考判断の前提条件を超え、互いに納得も得心もするには一段上の意識に登ってコンセンサスを得なければならないのでは?とふと思ったが、一段上の意識に上がるには、人の自助努力では限界があるのだろうか?
意識や認識の違いが前提となっていて、判断に相違がでることで二極が生じるということであれば、おそらくは判断の先には二極の融解はないのであろう。
判断を生じさせない状況が必要ということだろうか?
話せばわかるものだろうか?
二極を生じさせているのが、相手に対しての無意識の反感であるとすれば、この無意識の反感を手放すことに気がつかなければ、二極が融解することはないのではないだろうか?
時として思考過多は自らを縄で縛る。結果として常に正しい判断をしているつもりであっても、自らを追い込み、ストレスフルになり思ったほどよい結果が出ないこともある。
時には空を観じ、思考しないほうが得られる結果が良いというとこともあるのだ。
気づきというものを大切にしたいと思う。
