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2008年04月17日
プロローグ:新規事業の成否
開発者の意図や担当者のピュアな想いが、純粋に製品の中に凝縮されている状態。
このような状態のものはすごく好きなのだが、経験的に言えることは、プロジェクトが進んでいく中で、このようなピュアな状態は徐々に失われていくことが多い。
もちろん、中にはピュアな状態がおおもとのもとのコンセプトとして核となり、そのエネルギーが大きく拡散していくこともある。
うまくいくケースもあるばそうならないケースもあるのはなぜか?
プロジェクトを進めている間に、どうでもよい要素やエッセンスが徐々に盛り込まれていくからで、生まれたばかりのピュアな状態に徐々に雑身が増していくことになって、ピュアな状態が上手く育たないからだ。
また、ピュアな状態に固執するあまり、独りよがりになってしまうケースもある。
新規事業の場合はこのバランスが難しい。
初期に掲げたコンセプトは、例えばパッケージづくりやカタログづくり、WEBサイト、広告宣伝、営業戦略、すべてに波及していく。人と人が仕事で関わっていく流れのなかで、エネルギーが上手く伝播していったものは上手く広まるのだろうが、伝播していく過程の中で歪んでいってしまうことで、途中で頓挫してしまうケースも多い。
予算の問題や人材面での制約、ネットワークの有無など様々な問題を抱えながら動き出すのが新規事業の常なのだ。
ビジネスアイデアは生まれたとたんに死に掛けているといっても過言ではない。また育っていく過程で何度も死に掛けることもある。
最終最後に成否を分けるのは、主体者の意思や覚悟であったりするところが、実はビジネスシーンはロジカルでドライなシーンばかりではなく、むしろロジカルな判断をおこなうのであれば、やらないほうがよいという結論しか導かれない。
新規事業の成否を決めるのは、意外なほど人間的な情緒的なドラマだったりするものなのだ。
この縁を頂いたコスメ。幸運の女神の微笑みが得られるだろうか?
2008年04月13日
プロローグ:二極でありつづけるか?融解か?それとも終焉か?
砂丘が動くように (講談社文芸文庫)
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世界のイデオロギー、日本の政治、個々人の考え方、どれをとっても二極であることで意見が均衡(equilibrium)している。
価値や思考判断の前提条件が異なるため、互いにどうにも相容れない状況が起こり、いたずらに時間が消費されていく。
総論賛成・各論反対、思惑や駆け引き、綱引き・・・。
意味のないことが繰り返されているような気もするのだが、それでも時間は過ぎていく。
教義や思考判断の前提条件を超え、互いに納得も得心もするには一段上の意識に登ってコンセンサスを得なければならないのでは?とふと思ったが、一段上の意識に上がるには、人の自助努力では限界があるのだろうか?
意識や認識の違いが前提となっていて、判断に相違がでることで二極が生じるということであれば、おそらくは判断の先には二極の融解はないのであろう。
判断を生じさせない状況が必要ということだろうか?
話せばわかるものだろうか?
二極を生じさせているのが、相手に対しての無意識の反感であるとすれば、この無意識の反感を手放すことに気がつかなければ、二極が融解することはないのではないだろうか?
時として思考過多は自らを縄で縛る。結果として常に正しい判断をしているつもりであっても、自らを追い込み、ストレスフルになり思ったほどよい結果が出ないこともある。
時には空を観じ、思考しないほうが得られる結果が良いというとこともあるのだ。
気づきというものを大切にしたいと思う。
2008年04月13日
メッセージ:知か情か
よく昔の人は、「あれが腹ができておる」と言った。ところが若い人はよく「胸が熱くなる」とか、「胸が痛くなる」と言う。
ところが現代に近づくほどあまり腹とか胸とか言わなくなって、頭、あたまと言うようになった。
これは時代の変遷をよく表している。頭(=知)と、胸・腹(=情あるいは情意)のどちらが人間にとって本質的であるか、どちらが根幹でどちらが枝葉であるかといえば、これは言うまでもなく情意である、頭ではない。
2008年03月22日
プロローグ:想いの方向
私たちの目の前にある現実は結果の世界となります。まず想念の世界があって、そして結果の世界が現実の世界です。
そしてまたその先には新たな想念の世界があるのでしょう。因果応報というのは、これを表しています。いい結果をもたらすためにはいい想念がまず大事です。
想いの方向が間違っていたら、間違った結果が出てしまうのです。実はこの想念の世界は原因の世界とも呼ばれます。
その原因の世界にはもう一つ「目的の世界」というものがあります。原因を作る目的です。何のためにその原因をつくろうとしているのか。目的、原因、結果というふうに言うのですが、本当は目的の世界は五次元の世界、原因の世界は四次元の世界、結果の世界は三次元の世界というふうにわけられています。
つまり、目的の世界は神の世界に、原因の世界は霊・想念の世界に存在するということになります。
私はいつも、ものごとを現実化しようと思ったら、まず自分の行う目的は何かということを考えます。
たとえばこの本を出す目的は何かと。世の中をよくすることです。目的には二種類あるのです。わかりやすくいえば、天国から来ている目的か地獄から来ている目的かです。
天国から来ている目的というのは、すべての人を幸せにしようという目的です。
地獄から来ているというのは、自分だけの幸せ、自分だけの繁栄を満たすものです。
***
著者は関西アーバン銀行の頭取である、伊藤忠彦氏。
この本は私にとっては大変思い出深い本であって、線路のポイント(分岐器)のように新しい経営の考え方をインスパイアしてくれた本。
振り返ってみれば、ダイビング仲間で友人でもあるS証券のB社長から頂いて以来、そこから人生の大きな進路の変更が始まった。
ちょうど一年前、ダイビングのライセンスを取得。その後生まれて初めて沖縄に行って素晴らしい体験をし、さまざまな気づきを得ることができた。それ以来沖縄は自分にとっての心の故郷になっている。
帰ってきてからは、徐々に自分の世界が変わっていく体験のし通しであった。古い概念から新しい概念へのシフトが一日毎におこっていく。何かの力に誘われるように、戸惑いながらも日々新しくなっていった。
その流れの中で、沖縄が縁で尾関さんと再び。
そうしたつながりから、昨日はOSHOの弟子である、三木さんとお会いしていろいろとお話をさせて頂いた。
三木さんのブログを拝見していたら、関西アーバン銀行の伊藤氏が新たな本を執筆中という。とても楽しみ。
また、再びこうして繋がっていく。
人の想念、スピリットの輝きが繋ぐ新時代のレイライン。
2008年03月20日
プロローグ:重要なことは決意と一貫性
物事を成し遂げようとする際には、固い決意と一貫性が必要であるように思う。「こうなってほしいなぁ〜」という以上に、「こうあるべきだ」という、自分自身の内的な決意と一貫性があるということは極めて大切なことである。
ブレてしまってはだめ。また、物事を成し遂げようとする際に、決意をブラすようなことをいう善意の第三者や、方針や態度を崩すようなコミュニケーションをとる相手とは一定の距離をおくことも必要であろう。
***
きわめて堅固に確立された理論でさえ崩壊するときがある。その理論から導かれる予測が観察と一致ちなくなる場合がそうである。このようなときに観察される現象を科学者たちは、既存の理論では説明できない「変則事象」であると認識する。
面白いことに、これこそ真の意味で科学の進歩を促進するものなのだ。すべてがうまく行っているときにも進歩は起こりうるが、それはたかが既存の理論を新たな観察や発見にもあてはまるように改良するささやかな進歩でしかない。
重大な変化が起こるのは、これが不可能な場合なのである。
そのような場合、科学者たちは既存の理論を拡張しようするというのをやめ、より単純でより洞察に満ちた理論を探そうとする。根本的な理論の革新、すなわちパラダイム・シフトへの道が開かれるのである。
叡智の海・宇宙より
***
先日、元トヨタ自動車、KDDIの役員だった、S氏のお話を伺う機会があった。「何か新しいことを始めるときは、新しいことへの賛同者と積極的に話をするべきで、新しいことがもたらす変化に対して懐疑的な人たちとは、必要以上に話をすることはない。」という話を聞くことができた。
大切なことは、賛同者同士が自発的に影響力の輪を拡げていくことであり、それが唯一正しいことだ。そうでない人たちは様々な理由をつけて、新しいことそのものを否定してくるからだ。
賛同者が増えれば、日和見主義者は賛同者になる。臨界点までは賛同者を集め続ける努力をたゆまないということなのだろう。
上述のように、既存の理論では説明できないことを新しいことを、科学の世界では「変則事象」であると認識する。
この「変則事象」が既存の理論の枠組みに入らない場合、ここから根本的な変化、パラダイムシフトが始まることになる。
日本文化は、この「変則事象」の認識が最初の段階では極めて苦手でありながらも、ある特異点をすぎると急速に広まる性質を持っているように思う。
既存の枠組みを壊しながら、新しいものを作り上げていくには、この「変則事象」の性質を認識しながら、堅い決意と一貫性を持って具現化していくことが大切なのだ。
アメリカの金融の問題、中国の民族対立の問題、日本の政治に見られる見解の不一致等、一見すれば、世の中は不安定さを増しているように思うが、実は新しい枠組みへの移行期であると捉えれば、古いものが新しいものへと移行していくひとつの通過儀礼と捉えることが妥当なのではないかと考えている。
古いものから新しいものへの移行。
古い体制に属していれば、変化は不安をもたらすものだが、執着を手放し、新しい体制に属していれば、変化は希望をもたらすものである。
もう少しの時間で、より明確に趨勢が決まってくるだろう。古い体制では社会全体の枠組みが維持できないのは自明の理なのだ。逆説的に捉えれば、既存の枠組みでは社会全体の枠組みとし機能しなから不安定感が増しているのだ。
こういった変化の状況に対して、自らの心理が作り出す不安によってぶれることなく、固い決意と一貫性を持って物事を成し遂げることに専心したいものである。
叡知の海・宇宙―物質・生命・意識の統合理論をもとめて
2008年03月15日
プロローグ:為替と株式相場に吹く風
ついこのまえまでは、世界経済は、日本の経済成長力に対して悲観的だった。日本自身もさほど自信を持っていない状況が続いていたのではないだろうか?
世間的には経済成長の観点で、日本人が日本に誇りをもっていたり、自信に満ち溢れているムードではないが、ここ数ヶ月で円の価値は2割近くも上がっている。残念ながら、この状況は日本が引き付けた状況ではなく、サブプライムの問題で、ドルに対しての信任が揺らいでいる結果として、円が上がっているに過ぎない。
きっかけはいつもこのようなところから始まるものなのだろう。
いまの状況に対して、私自身は若干強気な見方をしている。千載一遇のチャンスであるとも見ている。
なにがチャンスであるかは、おいおい書いてみたいと思うが、とにかくチャンスなのだ。
私達日本人は、いささか自虐的すぎる。また、主体性に乏しいようにも思う。(この傾向は上の世代に多い)戦後の教育観が深層心理にそのようなメンタリティーを植え込んでいるからなのだろうが、しかしながら私達は、私達がおもっている以上にパワフルであり、魅力的な力を秘めているように思う。
円高くなると、輸出関連産業の株が下がる。為替相場の変動が、利益を失わせるからだ。しかし、この数年の間にグローバル化が進んでいることもあって、また、グローバル企業はこの問題には柔軟に対応しているため、為替変動に強い企業の株式は下がっても程度が知れているだろう。
構造改革前に銀行株を進める人はだれもいなかった。しかしながら、銀行は蘇った。不良債権の処理を国と一体となって進めたからだ。一般の投資家は長期的に見れば政府と中央銀行には敵わない。
現在のサブプライムの問題は、日本は先んじて対応した。この問題に関しては、日本は世界の雛形であり、苦しみながらも世界はこの問題に対応し、新しい枠組みを生み出すことだろう。
エネルギーの相場も高騰している、しかしながら、エネルギーの問題でも、やはり日本が先んじて世界の雛形となるだろう。私達は変化に対して見事に柔軟に対応することができる特性を持っている。
古い考え方が新しい考え方に移るとき、パラダイムシフトが起こるとき、このようなときにはこだわりを持たないこと、変化をチャンスと捉え、悲観的になることなく、新しい何かを生み出す意欲の発露を行うべきではないだろうか。
ついこのまえ教えていただいた禅の話が参考になる。
禅の一節に「風性常住、無処不周」というものがある。(道元禅師:現成考案)
扇をつかう和尚に対して、弟子が問いかけたものだ。
「風の本質は常住であり、すべてに行きわたらないところはないのに、なぜ和尚は扇を使うのか?」という問いだ。
師は言う、「お前は、ただ風性の常住なることを知っているだけで、行きわたらないところはないという道理はまだ分かっていない。」
扇を使うことではじめて風が常住なること、風の本質が変わらないことを知ることができる。
風がどこにでもいきわたるということを、ただ知っているだけでは、知っていることにはならない、扇を使ってみてはじめて風が行き渡るということを知ることができるという師の教えだ。
扇を使う、行動を起こすということで、風を起こすことができ、風を行き渡らせることができるというものだろう。
現状を変えたい人はこちらをご覧下さい。
2008年03月08日
プロローグ:恐れと不安について
恐怖感とは実に無慈悲な感情で、人間の心をあらゆる感動や高尚な感情に麻痺させ冷淡にさせる。
ドストエフスキー「作家の日記」
現代社会は、さまざまな不安や恐れに支配されているといっても過言ではないだろう。その不安を解消することが安堵感に繋がるため、そういった行動そのものが社会発展の原動力足りえると考える向きもあるだろう。
しかし、それではあまりにも愛がない。不足から生まれるのはまた新しい不足であって、本当の充足は生まれない。社会全体の幸福度や安堵感という正のエネルギーが増幅していく世の中に生きていきたいものである。
わざわざ敵を作ることで、自己の存在を確認するというのでは、敵がいなくなれば自己の存在証明がなくなるので、新しい敵を作ることになる。
それと同じで、恐怖と安堵は表裏一体であるわけだが、常に充足を感じながらよりよい充足を得るほうが、精神的にも健全な状態でいられると思うのだがいかがだろうか。
四苦八苦という言葉がある。苦労する様を表す言葉であるが、もともとは仏教用語。
四苦は、生病老死、八苦は愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)、怨憎会苦(憎む者と出会う苦しみ)、求不得苦(求めても得られない苦しみ)、五陰盛苦(心身から盛んに起こる苦しみ)を言う。
これらの苦は、人の執着が生み出すもので、自らの心が作り出した世界の産物であるわけであるが、恐れや不安の根源的な要素となるものは、死への恐れであるだろう。
死はだれにでも平等に起こるもので、死んでしまえばこの世の価値は関係のない世界になってしまう。物質はあの世に持っていくことはできないのだ。
死への恐怖が生じるのは、生への執着があるからであるが、しかし明日死ぬかもしれないから、精一杯今を生きようとする心の態度よりは、人間だれしもいつかは死ぬのだから、今を精一杯生きようとする心の態度のほうが、生に対する執着がない分、健全であるように思う。
恐れや不安に捉われている心を解き放つ為には、執着を手放すということ。
執着しなければ、実はかえって物事はうまく運ぶようになるのである。
社会が恐れや不安の解消を求めるエネルギーで発展するのではなく、あるべき姿へ向かって創造していくエネルギーで発展していくようにしていくことがこれから重要ではないかと思う。
多くの人の心がそう感じてもらえるように、自ら輝き、心を輝かせ、他を輝かせること、これをライトワークという。不安に基づく社会から、創造性と喜びに満ちた社会への変革運動のようなものだ。
今後はライトワークに興味のあるかたとの繋がりも増やしていこうと思う。
2008年03月08日
プロローグ:新しい枠組みの始まり
2008年に入ってから、ひときわ変化の潮流が激しくなっているように思う。古い枠組みが音を立てて壊れている感じがしているが、皆さんはどうだろうか?
自分の意識が、古い枠組みに捉われていれば、変化の兆しに気がつくことはできない。また、変化とは不変のもので、昨日と同じ自分はいないのだ。細胞は日々生まれ変わり、髪や爪は伸びていく。死ぬことはすべての人間に平等に与えられたものであり、私たちは、一秒一秒命を刻みながら、生きている。
つまりは、変化は連続しておこっており、今を生きていくことはとても重要であるということだ。そして、大切なことは今の連続の中で未来が形成されるということをどれほど実感を持って日々生きていくか?ということなのだ。
たとえば、最近金融市場の変化が著しい。1ドルは100円を切ろうとする勢いで動いている。ついこのまえまでは、120円前後。たった数ヶ月の間に2割近くも円は高くなっている。
よく言われる論調としては、日本は輸出が強い国だから、円が高くなると為替差損が生じて、損失が大きくなるというもの。だから、いわゆるグローバル企業の株式を中心に売られるので、指標レベルで株価は下がる。
だが、国内需要を中心に利益を上げている会社は、為替トレンドの変化による株価形成などは、本来的には全く関係がない。そうであるはずなのだが、全体のトレンドに追従する投資家が多いので、先行きの認識によって実態の株価が作られるという状況が容易におこるということなのだ。
株式は、景気の先行きを表す先行指標といわれているが、株価によって企業の業績を作り出すほどの力を持っている場合もある。
しかしだ、本来経営というものは足元の連続にあって、今があるから先行きの見通しが立てられるというものだ。いくら適時情報の開示をおこない、ディスクローズをしたところで、決算結果以上に正確なものはない。株価は投資家の期待値との信頼感によって、決定されるので、いつもオーバーバリューが当たり前ということなのだ。
では、当の投資家は合理的な判断ができているのだろうか?いまのように市場が上下動する時には、必ずしもそうであるとは言い難い状況かもしれない。
つまるところ、足元をしっかりと見据えながら、こういった局面は乗り越えていくしかないというのが世の常なのではないだろうか。
いま起こっている変化は、なかなか捉えにくいかもしれない。
911以降のアフガニスタン戦争や、イラク戦争は、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領時代のニューワールドオーダーの延長であって、変化の本流ではない。
いま起こっている変化は、21世紀に入って初めての大きな枠組みの変化であろう。禅の言葉に、「却下照顧」というものがある。自分の足元をよく見よという意味だ。
今の連続で先の未来がある。先の未来を見据えながら、一瞬、一瞬の今を大切に生きて生きたいものだ。そうすれば、思いのほか楽しい未来がまっているに違いない。
2008年03月02日
プロローグ:無駄に争わないことの大切さ
いまの世の中は、ともすれば自己中心的な考え方、すなわちエゴイズムによって自らの存在証明をおこなっているケースか、もしくは依存関係や共依存の関係で自らの存在証明をおこなっているケースが見受けられるように思う。
いずれの関係も、相手の存在がなければ自らの存在を確認することができないという価値観であって、自己の存在理由のある部分を相手に求めているため、相互の関係性のベクトルが、人間関係そのものをしていることになる。
よく周っている時は良いのだが、ちょっと力関係が変わったり、悪い方向に向いたりするととたんに関係性が悪化し、最悪の場合は破綻することになる。そうならないように窮屈な思いをしたり消耗したりすることもあるのではないだろうか。
かといって、極論すれば人は一人では生きていくことはできない。明日の朝食の材料はだれかがつくってくれた産物なのだ。その意味においては、ネットワーク化された社会では益々相互依存の度合いが増しているということでもある。
直接作り手や運び手、売り手の気持ちに触れることはできなくても、感謝の気持ちを持つことは大切にしたいと思う。
こういった関係性は、単に個々人の関係に留まらない。組織対組織、民族と民族、国家対国家でも同じことが言える。
たとえば急激に発展してきた中国経済は、食品で躓いた。食品の安全性に関しては日本はシビアな国だ。国内問題として雪印や不二家の事例で経験済みだからで、中国食品業界の信頼回復への道のりは厳しいものがあろうだろう。
しかし、大きく落ち込むことはあっても0になるということもまたない。中国の食品に関しては、日本側でも安全性を担保する努力をおこなうことになり、相互に協力しあった企業から少しづつ信頼を回復していくことになるはずだ。
こういったことは経済合理性に即して考えれば、極々普通のことなのだが、その関係を難しくするのが、相互の感情ということになる。組織の規模が大きくなれば、なおのことだ。
そういったときに大切なことは、相手との関係性の中で自分の価値を決めるということではなく、「自分としてこうだ」という価値基準に基づいて相手との関係性を決めるということが大切なのではないかと思う。
そのうえで、相手と争うことではなく、協力して相手と和解する方向に感情を向けることが必要な要件なのだ。将来に向けてどのような創造をしたいのか、発展をしたいのかが大切なことなのだ。
ダライ・ラマは、基本的には平和を望んでいるはずの人類社会に、争いや暴力がはびこらないようにするためには、「内なる武装解除」の必要性を説いている。
物は溢れども心がない昨今の世の中において、最も尊ぶべきは人間のハートとスピリットを大切にするような雰囲気を創り社会に広げていくことなのではないかと思う。もともと日本にはあったもので、この点の回復はこれらかの日本においては極めて重要ではないかと思っている。
そういった気持ちが、最初は小さな輪として拡がり、次第に大きな輪に拡がったとき、突然社会の幸福度はジャンプするようにあがるのかもしれない。陰極まりて陽となるということだ。そのためには、まず、相手を受容し許すことを大切にしたい。それはきっと、自分を許すことに繋がるだろう。人と人の関係は、そこからすばらしい相互依存関係に発展していくことになるのではないだろうか。
ダライ・ラマは、一人一人が利他的に行動することの大切さを説いています。以下は、ワシントン・ポストに掲載された「平和はわたしたちすべての内にある」という寄稿からの抜粋です。
前略
地球に対する考え方が急速に変化していることにも、同じく希望が見いだせます。わたしたちはごく最近まで、まるで地球には限りがないかのように、その資源を考えなしに消費しつづけてきました。
しかし今では、個人ばかりか政府までも、新しい生態系に優しい方法を求めています。
わたしはときどき、月や星はきれいだけれどみんながそっちで暮らそうとしたらどうしようもなくなってしまうだろうと冗談をいったりするのですが、とにかく、わたしたちが暮らすこの青い地球は、わたしたちの知る限りもっとも快適な住まいなのです。
そこに生きる命はわたしたちの命であり、その未来はわたしたちの未来です。そして今、母なる自然がわたしたちに語りかけます。助けあいなさいと。
温室効果ガスやオゾン層の破壊といった地球規模の問題に相対するとき、個人のグループや一つの国だけでどうにかなるものではありません。母なる自然がわたしたちに、世界的な責任を説いているのです。
20世紀は流血の世紀でした。21世紀は、そのスタートこそつまずき気味ではありますが、慈悲と非暴力の種がきっと花開く、対話の世紀となるでしょう。しかし志だけでは駄目です。
わたしたちは、増大していく兵器に本気で反対し、さらなる武装解除の実現に向けて世界規模で努力を払わなくてはなりません。
大きな人の流れも、一人の人が動くところから生まれます。もしもあなたが、自分には大したことはできないと思ってしまったら、隣にいる人も意気をそがれてしまい、大きなチャンスを逃すことになるでしょう。反対にわたしたち一人一人が利他的に動くことによって、ほかの人を力づけることができるでしょう。慈悲に溢れた心と気持ちでもって、世界とともに。
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2008年03月01日
プロローグ:社会システムの一員ですが・・・。
地球のことを、宇宙船地球号といったりする。人類は地球号という乗り物の一員というわけだ。地球温暖化はまったなしで進行している。もしかしたら、もう元には戻らないかもしれない。
メディアを通して地球温暖化の警鐘を眼に耳に見聞きしながらも、私たちは突然今日、車に乗ることを止めたりはしない。その気になればできないことではないが、そんなことはしない。例えば、物流が止まってしまったら、物の流れが滞って日常生活に支障をきたす。
できないわけではないがやらない。
やれない。
社会生活が車を使わないと不便になってしまうからだ。社会がそのような仕組みで成立しているから、生活様式を急に変えることができないというわけだ。
無理を通せば道理が引っ込む。
産業革命以降100年蓄積してきた少しづつ無理が、生命の維持にとって不可欠な、安定的な地球環境の維持という道理を引っ込めたというわけだ。
メディアの論調は、いつも「地球のために」という論点がある。「地球がかわいそう」とか、「地球が壊れる」とか、そんな論調だ。
この論調に触れるといつも感じることがある。この論調は地球のためではなく、人類のためなのだ。
地球という星がひとつの人格を持っていると想像するといろいろとみえてくることがある。地球は、過去には何回も温暖期と氷河期を繰り返しているので、都度生態系のリセットをおこなっている。
46億歳の地球からすれば、そのときどきの地上の覇者が恐竜であろうが、人類であろうがあまり関係がないと思っているかもしれない。
公転周期での太陽との距離が少しでも変われば、私達は生命の維持が困難になる。(太陽と地球の距離を1とすれば、太陽と火星の距離はは1.2で太陽と水星の距離は0.8だという。)
自転を行っている地軸が少しでも傾けば、気候変動を起こすことになる。(実際のところ2004年スマトラ島沖地震では、マグニチュード9.0の巨大地震で、地軸が2cm傾き、理論上は自転に影響を与えているという。)
ほんとにちょっとしたバランスのうえで、私達の生活は成り立っているのだが、その恩恵があたりまえすぎて、いまの地球環境の変化に対して、生活様式が十分に対応しきれていない。
パラダイムが変わるときには、これまで社会を維持拡大してきた仕組みは、社会システムは少しづつ輝きを失っていく。
変化するということは、唯一不変のものであるならば、すこしづつ変化に対応していくことが是ではないだろうか。
古い社会システムが輝きを失っていくとしても、古い社会システムに従属しながらでも、新しい社会システムの創造をおこなうことはできる。個人の力は小さなものだけれども、大切なことは自身の力を行使する際の向きと質なのだ。
具体的には何をすべきなのか?
例えば、そういうことに取り組んでいる企業の商品やサービスに関心を傾けること。これは一番簡単なことだ。少しの時間があればよい。
次には実際に商品、サービスを買ってみること。上場企業であれば投資することも可能だ。
逆に古い社会システムに従属し続ける企業、そこに固執し続ける企業に対しては、そのような企業からは自身の関心を遠ざけることだ。(「愛の反対は憎しみではなく、無関心」、マザー・テレサ、1910年〜1997年)
これらの二つの行為は、社会変革を促す為の事実上の静かな革命運動で、だれにでもできることです。
私は企業人で経済人だから、どちらかというとNPO的な発想はすくなくて、それよりも経済活動を通して、より良い社会をつくることができそうな企業、できる企業と仕事をしたいと思っている。
また、日々様々な経験を通して、学びを深めながら、新しい社会システムを作ることができるような取り組みをしたり、眼を養ったり、判断基準を磨きたいと思っている。
少なくとも後、30〜40年は生きる予定なので、地球に人類が住めなくなる前に、これまでの知識や経験、「理の力」を活かしながら、そうならないような努力、それ以上に持続可能な社会を維持拡大して幸せが拡がるような努力をしてみたいと思う。
2008年03月01日
プロローグ:はじめまして
個人として情報発信ツールを持つのは、何年ぶりだろうか?
インターネットメルマガ配信システム、まぐまぐが世に出てから3ヶ月後に、初めてメールマガジンに登録した。
そのメルマガを発行したのが、1998年3月3日。
いまから10年前だ!
そのときに発行したメールマガジンは最終的には4万部まで発行するメディアになった。それを期に、独立していまに到る。
10年一昔とはよくいったものだ。
かねてから、当時のメルマガとは別の、新しい情報発進を行いたいという衝動には駆られていたのだが、実行に到るまでにはならなかった。
ムーバブルタイプを入れてみようか?とか、いろいろ思案はしていたが、よい仕組みがなかった。
メールマガジンやブログでの記事には伝わり方に限界がある。
文字で読んだものは、読み手の思考パターンや経験や感じ方で捉え方が変わってしまうからだ。
いまから思えば、メールマガジンを止めたのは、私自身がこの伝わり方の違いがわからないまま、読者に対してこちらの意図が伝わらないことに苛立ちを感じるのが嫌になったからだったかもしれない。
だがふと、「らじろぐ」だったら伝わるかもしれない。そう思った。(シームスさん、本当によいものをつくりましたね!)
文字+音+映像、これらのツールが使えれば、伝えることは10年前よりも上手にできるかもしれない。
私自身が伝えたいことはたくさんある。ありすぎて困るくらいだ。
10年前にメールマガジンを発行していたときに考えていたことは、それぞれの多様な個が活躍する社会の実現だった。いわゆる「ビットバレー」という、ネットビジネスのムーブメントにも関わった。ムーブメントの過程で、変化とともに大成功している人もいれば、逮捕された人もいる。
そんなことはどうでもよい。
この10年という時間の経過の中で、社会の変化とともに新しい枠組みにはなった。当時硬直化していた日本の社会システムは、随分と柔軟になり、人々の価値観は多様になった。その分、幸せになっているか?というと社会全体の幸福度は決して高くないのではないだろうか?合理主義がはびこり、論理思考過多で、ストレスフルな世の中になっているように思う。
一言でいえば「心がない」ということになるのだが、そんな単純なものではなく、思考というマインドと、心というハートがばらばらになっている状況だ。
マインドとハートの分裂は、癒しで解決できるか?というとそうではないように思う。
もっと深いもの、魂、スピリットのレベルでマインドとハートを結んでいかないと、自分の中でどこかごまかしが出てくるようになる。
この世界、スピリットのレベルになると、まず理屈は通じない。理屈は論理を言い換えたもので、屈とは曲がるということだ。曲がっていては伝わらない。届かないのだ。
では、理とは何か?
理とは璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことだ。璞とは、まだ磨いていない玉のことを意味する。玉とは魂だ。
理とは、ことわりとも読む。ことをわり、筋道をつけることを意味する。一見、理屈では正しいことをいっているように聞こえても、そこに納得しがたいものがあれば、人の心は動かない。正誤を判断したり、善悪の区別をつけるのではなく、0と1ではなく、0と1の間にあるものを1に近づけるために、ことわりにこだわる。
理には力がある。スターウォーズでは、フォースを理力といった。
この理にこだわって、これからの時代にふさわしい条理の流れを 少しづつ作って見たい。
